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【推しの子】最終話の炎上と二重の【】―アクアとルビーが映しだすSNS社会の危うさ

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【推しの子】最終話の炎上理由を考察。アクアとルビーが描くSNS社会の危うさや二重の【】記号が示すテーマを深掘りします。

【】が象徴する二重の意味

【】記号が表す「語られる作品」としての【推しの子】

【推しの子】に登場する「【】」という記号は、匿名掲示板サイトのスレッドタイトルに使われるものだということが、おまけマンガで明らかにされています。

推しの子/赤坂アカ/横槍メンゴ/集英社

その意味するところは、この記号で囲まれた対象は、ひとびとに「語られる存在」として広がっていくことです。

たとえば、アイは【推しの子】として、「アイドル」という役割を押し付けられることで、「母」という役割は否定されました。あかねもまた、「悪い女」という役割期待を押し付けられ、精神的に追い詰められる結果となりました。これらは前編で述べたとおりです。

さらに興味深いのは、【推しの子】という作品そのものが二重の【】で囲まれる可能性です。これは、この作品自体が匿名掲示板やSNS、レビューサイトなどで「語られる対象」となるということです。

藍沢星那社会学ラボ

今、正に炎上対象として、【推しの子】はさまざまに人びとによって語られ、再解釈や批評の中で新たな「物語」として形を変えています。

もし、この現実が作者によって意図されていたとしたら、その先見性には驚嘆せざるを得ません。

【】記号が示す「アクアとルビーそれぞれの物語」

一方で、二重の【】は「アクアの物語」と「ルビーの物語」の二重構造を表しているとも解釈できます。

”推し”の”子”に転生(うま)れて”嘘”が武器の芸能界を生き抜く双子の物語…

「週刊ヤングジャンプ」50号【推しの子】表紙より

アクアの物語は、母の復讐を果たすという「復讐劇」の「物語」でした。最終的には、アクアの選択によって、人びとにはカミキヒカルの犠牲者という「物語」に落とし込まれました。
ルビーの物語は、母と兄の意志を受け継ぎ【推しの子】=【アイドル】として生きる物語です。母と兄が2人とも殺されるという「悲劇」に遭った「物語」として、人びとには解釈されました。

アクアとルビーという双子の【推し】の【子】が奏でる物語は、重なり合いながら展開することで【推しの子】のテーマ「嘘」と「真実」の核心部分を支えているのです。


SNS社会への問いかけ―私たちは何を語るのか

【推しの子】が描いたのは、SNS社会における「語り」の力とその危険性です。SNSでは、誰もが他者を勝手に物語化し、あるいは自らが物語化されるリスクを抱えています。最終章は、次のような問いを私たちに投げかけています。

  1. 他者をどう語り、どう期待しているのか?
  2. SNSが生む物語が、誰かの人生にどれほど影響を与えるのか?
  3. 私たちはどうすれば、この連鎖を断ち切ることができるのか?

これらの問いは、SNS時代に生きる私たちにとって極めて重要なテーマです。


私たちができること―語りと向き合う責任

【推しの子】の物語から、私たちが学ぶべき教訓を以下の3点にまとめます。

  1. 他者を安易に物語化しない
    個人を役割やステレオタイプで捉えず、多面的に理解する努力をすることが大切です。
  2. SNSでの言動に責任を持つ
    発言が他者に与える影響を考え、無責任な中傷や批判を避けることが求められます。
  3. メディアリテラシーを高める
    情報を鵜呑みにせず、その裏に隠された意図や背景を見極める姿勢が必要です。

まとめ―二重の物語が問いかけるもの

【推しの子】最終章は、「語られる存在」としてのアクアとルビーを描くだけでなく、作品自体が「語られる物語」として現実社会に問いを投げかけています。

私たちは、他者をどう語りあるいは語らないべきなのか。また、他者の語りをどう受け止めるべきなのか。この作品をきっかけに、改めて考える必要があるのではないでしょうか。


最後に

【推しの子】最終章の炎上と、この作品が警鐘を鳴らした内容について、前編と後編に分けて論じてきましたが、いかがでしたでしょうか?

漫画【推しの子】は、現代社会におけるSNSやメディアの「語り」の危うさを鮮烈に描き出しました。他者を一方的に物語化し、バッシングの対象にする構造は、誰もが当事者となり得る問題です。そうした意味で、炎上を理由にこの作品を「何も得るものがない」と切り捨ててしまうのは、あまりにもったいないことだと思います。

【推しの子】が提示した社会問題は、個々人が注意を払うことで改善できる部分があるように見えますが、社会学的な視点では、そもそも他者をバッシングできる空間そのものの在り方を見直すことが求められます。

互いの権利を侵さず、安心して自己主張ができる場というのは、言論の自由という名の無法地帯に自然発生するものではありません。そうした空間は意図して「作る」ことで初めて「安全な空間」となるのです。

この作品を通じて提示された問題は、私たち一人ひとりが考えるべき課題であると同時に、社会全体で取り組むべきテーマです。

あなたはどう思いますか?ぜひコメントで意見を聞かせてくださいね。